深堀り!富山とりっぷ ~黒部峡谷トロッコ電車編~
黒部峡谷といえば、「秘境」。
立山連峰と後立山連峰(うしろたてやまれんぽう)の間を流れる黒部川が、長い時間をかけて深いV字谷を刻み、形成された大峡谷です。
独特のネーミングで黒部峡谷を深掘り
黒部峡谷トロッコ電車は、この黒部峡谷に沿って、宇奈月駅と欅平(けやきだいら)駅間の約20kmを走っています。
険しい谷と厳しい自然。
それは、黒部峡谷に残る地名などからも知ることができます。
宇奈月駅を出発して、黒薙(くろなぎ)駅から見える風景で、「後曳橋(あとびきばし)」といいます。
高さ60m、長さ64mの橋ですが、沿線で最も険しい谷で、入山者が「思わず後ずさりをする」ということから、名付けられたそうです。
「猫又(ねこまた)駅」は、猫に追われたねずみが岸壁を登れずに引き返し、追ってきた「猫もまた」、同じように引き返したことから来ているそうです。
車窓からは、「ねずみ返しの岩壁」が見えます。
「猿飛峡(さるとびきょう)」は、黒部川で最も川幅が狭く、猿が飛び越えたと言われることから付いたそう。
ちなみに、黒部川には「猿のつり橋」といって、宇奈月ダムが建設された後、サルが対岸へ渡れるように作られた吊り橋があります。
猿の御一行さま、渡っていますよ。
黒部峡谷は、日本でもっとも深く、もっとも大きな峡谷。
この黒部峡谷で本格的な電源開発を始めたのが、タカジアスターゼの発明で有名な高峰譲吉博士(富山県高岡市出身)です。
博士は、アルミニウム製造事業に取り組み、そのために必要な発電所の建設や鉄道建設を計画しました。
大正15年に、宇奈月と猫又間が運転開始、昭和12年には欅平まで開通しています。
資材を運ぶための専用鉄道でしたが、当初から地元の人々を「便乗」という形で乗せていたところ、うわさを聞いた一般の人々や登山者などからも、「乗りたい」という要望が来るようになったそうです。
昭和4年から一般のお客さんも乗せるようになりましたが、「便乗証」には、「便乘ノ安全ニ付テハ一切保證致シマセン」と、書かれています。
その後も、観光列車として利用したいとの声が強まり、昭和28年に、関西電力株式会社が地方鉄道業法の許可を得て、「黒部鉄道」として営業運転をスタートしたとのことです。
写真は、かつて活躍したトロッコ電車。
宇奈月駅付近のトロッコ広場にて展示されています。
そして、昭和46(1971)年、黒部峡谷鉄道株式会社が設立。
断崖絶壁の峡谷に、線路を建設し、資材を運び、電源開発を実現した多くの人々の力。
トロッコ電車に乗るときに歴史についても思いを巡らせれば、より深く楽しい体験となりますよ。
トロッコ電車の「オン」と「オフ」を深掘り
「トロッコ」とは、土砂などを運搬するための簡易な貨車のこと。
ここでは、客車以外の車両に注目してみましょう。
EDR形は、黒部峡谷を走る主力の電気機関車。
通常は2両を連結し、重連で運行します。
EDS形は、昭和32年に製作された凸形の電気機関車。
運転士は横向きで運転します。
黒部峡谷鉄道は、現在でも、資材の輸送業務を行っており、このト形の貨車は、主に砂利やセメントを運搬する車両です。
鉄道ファンに人気なのが、鐘釣(かねつり)駅のスイッチバック。
電車が後退してからあらためて発車します。
断崖絶壁で土地がないため、上りと下りの列車を交換するために行うのだそうです。
黒部峡谷鉄道は、例年12月から休業となります。
「オフシーズンの黒部峡谷鉄道」は、どうなっているのでしょうか。
ちょっと深掘りして聞きました。
まず、雪が積もる前にやっておく作業があるそうです。
ここは、「ウド谷橋」。
大きな雪崩が発生する場所なので、休業中は、線路も橋桁も取り外してしまうんだそうです。
線路と橋桁は、トンネルの中に入れて大きな扉で塞ぐとか。
4月には再度設置するとのことです。
トロッコ電車は、車庫でバラバラに解体して整備を行っているそうです。
「ここまで分解するか」というくらいばらすそうですよ。
黒部峡谷鉄道は、客車、機関車だけでなく貨車もあるので、同規模の鉄道会社では、全国でも上位に位置するほどの車両を保有しているとのこと。
4月の一部営業運転開始までに整備を終えるのも大変ですね。
そして、運転再開準備には、この除雪用作業車が活躍します。
大雪もどんどん吹き飛ばしていきましょう!
※画像提供/黒部峡谷鉄道株式会社
※この特集はJR東日本グループ(株)びゅうトラベルサービスの旅行商品と連携した記事です